
英語版のマニュアルが必要になった。翻訳会社に出す予算も時間もなく、自分で訳すことになった。
このとき、訳文の質を上げようとすると終わりません。先に手をつけるべきなのは同じものが違う語で書かれる「揺れ」のほうです。揺れは仕組みで消せます。
自分で訳すとき、最初に起きるのは揺れ
1人で訳しても、複数人で訳しても、同じ問題が出ます。
同じ部品が、3ページ先では別の語になる
日本語で「取付板」と書かれた部品を、あるページでは plate、別のページでは bracket と訳す。訳した本人は同じものだと分かっていますが、読む側には別の部品に見えます。作業手順書でこれが起きると、現場で止まります。文法の誤りより、こちらのほうが事故につながります。
章ごとに担当を分けると、必ずずれる
分担して訳すと速く終わりますが、語の選び方が人によって違います。あとで統一しようとすると、全文を見直すことになり、結局時間がかかります。分けるなら、最初に語を決めてから分けてください。
機械翻訳を使っても揺れる
同じ日本語でも、前後の文脈によって違う訳語が出ます。文単位で処理されるためで、全体の一貫性までは見ていません。機械を使えば揺れが消えるわけではなく、むしろ気づきにくくなります。
質を上げる前に、揺れを消す
限られた時間をどこに使うかの問題です。
| やること | 効果 | かかる時間 |
|---|---|---|
| 用語を固定する | 誤解が減る | 1〜2時間 |
| 原文の日本語を直す | 訳の精度が上がる | 半日 |
| 訳文を磨く | 読みやすくなる | 終わらない |
読み手が困るのは、揺れのほう
多少ぎこちない英語でも、語が一貫していれば読めます。逆に、きれいな英語でも語が揺れていると、同じものを指しているのか判断できません。マニュアルの目的は、読んだ人が作業できることです。文章の美しさは目的ではありません。
揺れは自動で見つけられる
用語集さえあれば、訳文の中でその語が使われているかを検索で確認できます。目視で全文を読み直す必要はありません。質の評価は人の判断が要りますが、揺れの検出は機械的にできます。ここが効率の差になります。
完璧を目指さないと決めておく
社内利用や暫定版であれば、通じることが最優先です。正式な製品マニュアルとして外部に出すなら、最終的には専門家の確認が要ります。どちらの用途かを先に決めて、かける時間を変えてください。英文契約書は前から読まないと同じで、自分がどこまで担当するかを決めるのが先です。
用語集は20語で足りる
最初から網羅しようとすると、作る段階で止まります。
入れるのは、揺れると事故になる語
製品名、部品名、画面上のボタン名、操作の名前、そして警告に使う語。この5種類で、たいてい20語以内に収まります。一般的な動詞や形容詞は入れなくて構いません。多少揺れても、読み手が困らないからです。
新しく考えず、過去の資料から拾う
社内にすでに英語の資料があるなら、そこで使われている語をそのまま使ってください。自分で最適な訳語を考えると、過去の資料と食い違います。読み手にとっては、正しい語より、いつもと同じ語のほうが分かりやすい。過去の資料がなければ、そのとき初めて決めます。
警告の語は、勝手に訳し分けない
注意、警告、危険といった語は、安全に関わる表記です。強さの区別が決まっている場合があるので、既存のマニュアルの表記を確認してください。自分で訳語を選ばず、社内の基準に合わせます。基準が分からなければ、その部分だけでも確認を取ってください。
機械翻訳とAIの役割を分ける
両方使えますが、得意な部分が違います。
| 作業 | 向いているもの |
|---|---|
| 大量の文を一気に訳す | 機械翻訳 |
| 用語集に従って訳す | AI(指示が出せる) |
| 日本語の曖昧さを指摘させる | AI |
| 訳文の揺れを探す | 検索機能 |
| 最終確認 | 人 |
先に社内の規程を確認する
マニュアルは社外秘の情報を含むことがあります。外部のサービスに文書を入れてよいかを、始める前に確認してください。禁止されている場合は、社内で使える環境の有無を情報システムの担当に聞いてください。ここを飛ばすと、あとで大きな問題になります。
用語集を渡して訳させる
用語集にある語は、必ず指定した訳語を使ってください。
用語集にない専門用語が出てきた場合は、訳さずに【未定義】と印をつけて、
最後にその語の一覧を出してください。
【用語集】
取付板 = mounting plate
点検口 = inspection port
(以下、20語)
【本文】
…
未定義の語を報告させるのが要点です。これがないと、勝手に訳された語が混ざります。報告された語は用語集に追加して、次の章から使います。
訳文の揺れは検索で確認する
訳し終えたら、用語集の20語をそれぞれ検索してください。指定した訳語が出てくる回数と、日本語の原文でその語が出てくる回数が近いかを見ます。大きくずれていたら、別の語で訳されている箇所があります。全文を読み直すより速く見つかります。
訳す前に、日本語を直す
訳しにくい英語になる原因は、元の日本語にあることが多いです。
| 原文の特徴 | 起きること | 直し方 |
|---|---|---|
| 主語がない | 誰がやるか不明になる | 作業者か装置かを書く |
| 一文が長い | 係り受けを取り違える | 1文40字程度に切る |
| 「など」が多い | 範囲が不明になる | 列挙するか削除する |
| 「適宜」「必要に応じて」 | 条件が消える | 条件を書くか削除する |
主語を必ず書く
日本語のマニュアルは主語を省きます。「電源を切ってから取り外す」は、誰が切るのかが書かれていません。英語にすると主語が必要になるので、訳す側が推測することになります。推測が間違っていると、手順の意味が変わります。訳す前に、作業者がやるのか、装置が自動でやるのかを明示してください。
「適宜」を残さない
適宜、必要に応じて、といった語は、条件を書かずに判断を読み手に委ねる表現です。日本語では通りますが、英語にすると何も指示していない文になります。条件が決まっているなら書く。決まっていないなら、その語ごと削除してください。
直した日本語を正とする
訳すために直した日本語は、日本語版にも反映してください。2つの版で内容が違うと、あとで改訂するときに混乱します。手間に見えますが、次の改訂での手戻りが減ります。
確認するのは3点だけ
全文を読み直す時間はないので、確認対象を絞ります。
数値と単位
桁が落ちる、単位が変わる、小数点の位置がずれる。この種の誤りは、読んでも気づきにくく、影響は大きい。数字だけを拾って、原文と1つずつ突き合わせてください。単位の表記も、国によって慣習が違うので確認が要ります。
否定と条件
「〜しないでください」が肯定文で訳されていると、意味が正反対になります。禁止事項と条件分岐の箇所だけは、必ず人が読んでください。ここは機械の誤りが致命的になる部分です。
用語集の20語
前の章で説明した検索での確認です。この3点が終われば、社内利用としては十分な水準になります。それ以上の精度が必要なら、専門家に依頼する段階です。
まとめ
自分で訳すときは、質より先に揺れを消します。
- 同じものが違う語で書かれると、読み手は別物だと判断する
- 多少ぎこちない英語でも、語が一貫していれば読める
- 用語集は20語で足りる。製品名・部品名・ボタン名・操作名・警告語
- 訳語は新しく考えず、社内の既存資料から拾う
- AIには用語集を渡し、未定義の語を報告させる
- 訳す前に、主語を補い、一文を短くし、「適宜」を消す
- 確認は3点。数値と単位、否定と条件、用語集の20語
外部に出す正式版なら、最後は専門家の確認が要ります。ここで扱ったのは、その手前までの作業です。
よくある質問
用語集を作る時間もありません
製品名と部品名だけ、5語でも構いません。ゼロと5語では大きく違います。訳しながら追加していく形でも足ります。最初から完成させようとしないでください。
分担して訳す場合はどうしますか
訳し始める前に用語集を共有して、未定義の語が出たら全員に共有する運用にしてください。あとから統一するより、はるかに速く終わります。共有の場所は1か所に決めてください。
図や表の中の文字はどうしますか
見落としやすい部分です。画像に埋め込まれた文字は検索できないので、用語集の確認から漏れます。図版の中の語は、別のリストにして最後にまとめて確認してください。
英語圏以外の相手が読む場合も同じですか
むしろ揺れの影響が大きくなります。英語を第二言語として読む人は、文脈から推測する余地が小さいためです。語の一貫性と、一文の短さは、より重要になります。
過去の英語版があるのに、訳語が気に入りません
気に入らなくても、まずは合わせてください。変えるなら、過去の版も含めて全部を変える必要があります。1つの版だけ変えると、読み手には別物に見えます。変更するなら、改訂のタイミングで一括で行ってください。