自省録とは、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが自分に向けて書いた手記です。原題は「彼自身へのもの」。本人は公になることを想定しておらず、書名も後世が付けました。戦場の陣中で書かれたことで知られていますが、中を開くと、疫病のことも戦争のこともほとんど書かれていません。しかも皇帝でありながら、ラテン語ですらない言語で書かれています。
目次
自省録とは
マルクス・アウレリウスは、121年に生まれ180年に没した第16代ローマ皇帝です。ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに続く五賢帝の最後の1人とされます。
自省録は、その彼が残した唯一の著書です。ただし著書という言い方は、正確ではありません。
原題は『タ・エイス・ヘアウトン』。意味は「彼自身へのもの」です。自分に宛てて書かれたもの、ということになります。
本人は、これが世に出ることを想定していませんでした。『自省録』という書名すら、後世の人間が付けたものです。
どこで書かれたのか
執筆時期は、マルコマンニ戦争のさなか、とくに170年以降とされています。ドナウ川流域でゲルマン系の諸部族と長期戦を続けていた時期です。
場所については、本文中に手がかりが残っています。
| 記載 | 内容 |
|---|---|
| 第2巻 | フロン川のほとりで、クァディ人に囲まれて書かれたもの |
| 第3巻 | カルヌントゥムで書かれたもの |
クァディ人は、当時ローマと戦っていた部族です。敵に包囲されている状況で書かれたという記述が、本文そのものに残っていることになります。
なお、この2つの記載は第2巻・第3巻の冒頭ではなく、第1巻・第2巻の末尾に書かれたものだとする説もあります。
同じ時期、帝国は疫病にも襲われていました。165年から180年にかけて流行した、いわゆるアントニヌスの疫病です。ローマの医師ガレノスが記述したことから、ガレノスの疫病とも呼ばれます。
皇帝なのに、ラテン語で書いていない
まず、多くの人が見落とす点から。
自省録は全編がギリシャ語(コイネー)で書かれています。ローマ皇帝の手記でありながら、ラテン語ではありません。
当時のローマにおいて、ギリシャ語は教養層の言語であり、哲学の言語でした。ラテン語は行政と法と軍の言語です。
つまり彼は、公務で使う言語を避けて書いていたことになります。皇帝としての自分と、書いている自分を、言語の面から切り分けていたとも読めます。
ここが「裏」の部分
これが誰かに読ませるための文章なら、ラテン語で書くほうが自然です。帝国の統治者が国民に向けて残す言葉なのですから。
ギリシャ語で書かれているという事実そのものが、これが公開用ではなかったことの傍証になっています。
疫病も戦争も、ほとんど書かれていない
ここがいちばん意外な部分です。
自省録は「疫病と戦争のさなかに書かれた」という枠で紹介されます。ところが中身を見ると、ローマ帝国の当時の状況や、職務上の記録は、ほとんど書かれていません。
戦況の分析もなければ、部下への評価もない。疫病の被害についての記述もほぼ見当たりません。内容は彼自身の哲学的な思索に限られています。
皇帝の手記なのに、皇帝としての記録がない。これは日記ではなかったということになります。
では、何のために書いたのか
状況を記録するためではなく、状況に対する自分の状態を立て直すためだったと考えるのが自然です。
目の前で人が死んでいく。戦争は終わらない。書いても変えられないことばかりです。変えられるのは、それにどう向き合うかという自分の側だけになります。
後期ストア派の特徴として、自然学や論理学より倫理学を重視する態度が挙げられます。何が起きるかではなく、それにどう応じるかを扱う分野です。手記の内容は、その姿勢と一致しています。
同じことが、何度も繰り返される
自省録は、整った哲学書ではありません。
短い散文の集積で、一貫性を欠き、同じ主題が何度も取り上げられます。12巻に分かれてはいますが、その区分を行ったのがマルクス本人かどうかも定かではありません。一冊の書物として構成されたものではないのです。
例外は第1巻だけです。ここは自分への語りかけではなく、神々と、自分の周囲の人々への感謝が記されています。書かれた順としては最後で、本来は最終巻に置かれる予定だったという説もあります。
整理された著作ではなく、書きためたものが後から12巻に分けられた。
繰り返しが多いのは、編集が甘いからだと見ることもできるでしょう。ただ、書かれた事情を考えると別の読み方が出てきます。
同じことを何度も自分に言い聞かせているのは、一度書いたくらいでは身につかなかったからです。腹が立つ、思うようにいかない、人が死ぬ。そのたびに同じ結論に戻る必要があった。
できていたから書いたのではなく、できていなかったから何度も書いたという順序になります。
残ったのは偶然だった
本人が公開を想定していなかったものが、なぜ1800年以上読まれているのか。伝わり方を見ると、綱渡りだったことが分かります。
最初の確かな言及は死後170年ほど後。そこからさらに長い空白がある。
確実に自省録を指すとされる最初の言及は、哲学者テミスティオスの350年頃の演説です。その後は長い空白が続きます。
次に現れるのは900年頃。司教カエサレアのアレタスが、手紙のなかで写しを持っていると書きました。10世紀の辞典『スーダ』にも「12巻からなる、マルクス帝による彼自身の人生の対話」という記載が残りました。
公開する気のなかった私的な記録が、写本の系統が一本でも途切れていれば消えていたという状態を通り抜けて、今日に届いています。
この見方の弱点
1. 「誰にも見せない前提」を強調しすぎない
公刊を想定していなかったのは確かですが、それはまったく人の目を意識していなかったという意味ではありません。当時の教養人にとって、自分に向けて書くこと自体が確立した習慣でした。
形式として自分宛てを選んでいる以上、完全な内心の吐露と読むのは行き過ぎになります。
2. 疫病の被害は、数字が一人歩きしやすい
アントニヌスの疫病の死者数は、500万から1000万人、帝国人口のおよそ1割という推定が知られています。ただし当時の人口統計そのものが推定値で、幅があります。
「ピーク時に1日2000人が死亡した」という記述もよく引かれますが、これは同時代の歴史家カッシウス・ディオが189年のローマ市について述べたものです。マルクスが亡くなったのは180年ですから、彼の在位中の数字ではありません。
病気の正体も未確定です。長く天然痘とされてきましたが、近年の遺伝学的な知見はこれに否定的で、麻疹説もあります。現時点で遺伝的な証拠は得られていません。
3. 「哲人皇帝」の評価は、後の時代の結果も含む
マルクスの死後、帝位は実子コンモドゥスが継ぎました。五賢帝の時代は、そこで終わります。
養子による継承を続けてきた慣行を、彼が実子相続に戻したことは事実です。手記の中身が立派であることと、統治者としての判断が正しかったかどうかは、切り分けて評価する必要があるでしょう。
この話と並べて読む
では、自分はどうするか
1. 誰にも見せない前提の記録を、1つ持つ
自省録が続いたのは、読み手を想定していなかったからでもあります。読まれる前提の文章は、どうしても整えにかかります。
今日できること:共有しないファイルかノートを1つ用意し、今日うまくいかなかったことを1行書いてください。原因の分析も対策も要りません。事実だけを書きます。
整った文章にしようとした時点で、読み手を想定し始めています。誤字も言い直しも、そのまま残して構いません。形式を捨てられるかどうかが、この記録が続くかどうかを決めます。
2. 同じことを何度書いても構わないと決めておく
自省録は同じ主題の繰り返しでできています。一度書いて身についたなら、二度目は要らなかったはずです。
今日できること:過去に書いた記録を見返して、同じ内容が3回以上出てくる主題を探してください。それが、あなたが繰り返しつまずいている場所です。
見つかったら、消したり整理したりしないでください。繰り返し現れること自体が情報です。次に同じ場面が来たとき、そこを見返せる状態にしておくほうが役に立ちます。
3. 変えられるものと、変えられないものを分けて書く
マルクスが書き残したのは、戦況でも疫病でもなく、それに向き合う自分の側についてでした。記録の対象を、手が届く範囲に絞っていたことになります。
今日できること:気がかりなことを1つ選び、紙を2つに分けて「自分の行動で動かせること」と「動かせないこと」に振り分けてください。動かせない側に多く並んだなら、そこに使っている時間が、そのまま無駄になっている時間です。
まとめ
自省録とは、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが自分に宛てて書いた手記です。原題は「彼自身へのもの」で、書名は後世が付けました。執筆はマルコマンニ戦争のさなか、とくに170年以降で、本文には「クァディ人に囲まれて書かれた」「カルヌントゥムで書かれた」という記載が残っています。
ただし中身は、戦記でも記録でもありません。全編がギリシャ語で書かれ、疫病や戦争や職務についての記述はほとんどなく、同じ主題が何度も繰り返されます。
整った哲学書ではないのです。書かれているのは、変えられない状況を前にして、自分の側をどう保つかという言葉だけでした。できていたから書いたのではなく、できなかったから何度も書いたと読むほうが、内容と合っています。
そして、これが今日まで残ったのは偶然に近い経緯によるものです。確実な最初の言及は350年頃、次は900年頃。写本が一つ失われていれば、この本は存在しませんでした。
よくある質問
自省録とはどんな本ですか
ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが自分に向けて書いた手記です。原題は『タ・エイス・ヘアウトン』で「彼自身へのもの」を意味します。本人は公になることを想定しておらず、『自省録』という書名も後世に付けられました。彼の唯一の著書です。
自省録はいつどこで書かれたのですか
マルコマンニ戦争のさなか、とくに170年以降とされています。本文には第2巻に「フロン川のほとりで、クァディ人に囲まれて書かれたもの」、第3巻に「カルヌントゥムで書かれたもの」という記載があります。ドナウ川流域の前線です。
なぜギリシャ語で書かれているのですか
当時のローマにおいて、ギリシャ語は教養層と哲学の言語で、ラテン語は行政と法と軍の言語でした。皇帝でありながら公務の言語を避けて書いていることになり、これが公開用の文章ではなかったことの傍証にもなっています。
自省録に戦争や疫病のことは書かれていますか
ほとんど書かれていません。内容は彼自身の哲学的な思索に限られており、ローマ帝国の当時の状況や職務上の記録はほぼ見当たりません。状況を記録するためではなく、状況に向き合う自分の側を立て直すために書かれたと考えられます。
なぜ同じ内容が繰り返されるのですか
一冊の書物として構成されたものではなく、書きためた短い散文の集積だからです。12巻の区分をマルクス自身が行ったのかも定かではありません。同じ主題に何度も戻っているのは、一度書いた程度では身につかなかったためと読むこともできます。
アントニヌスの疫病はどれくらいの規模でしたか
165年から180年に流行し、死者は500万から1000万人、帝国人口のおよそ1割と推定されています。よく引かれる「1日2000人が死亡」という記述は、歴史家カッシウス・ディオが189年のローマ市について述べたもので、180年に亡くなったマルクスの在位中の数字ではありません。
共同皇帝ウェルスとはどういう関係ですか
ルキウス・ウェルスはマルクスの息子ではなく、ともにアントニヌス・ピウスの養子となった義兄弟にあたります。161年から共同皇帝を務め、のちにマルクスの次女ルキッラと結婚しました。169年に病により没し、以後マルクスは単独の皇帝となります。
自省録はどうやって現代まで伝わったのですか
経緯には空白があります。確実に本書を指すとされる最初の言及は350年頃の哲学者テミスティオスの演説で、次は900年頃、司教カエサレアのアレタスが写しを持っていると手紙に書いたものです。10世紀の辞典『スーダ』にも12巻として記載があります。