当サイトではアフィリエイトプログラムを利用して商品を紹介しています。掲載リンクからご購入いただいた場合、当サイトに報酬が発生することがあります。

ウォーレン・バフェットの失敗談|11歳で買った株を早く売り、その後202ドルになった1942年

成功の原理原則

ウォーレン・バフェットが最初に株を買ったのは1942年、11歳のときでした。銘柄はシティーズ・サービスの優先株。1株38.25ドルで3株、合計114.75ドルです。ところが株価は27ドルまで下がり、彼は40ドルに戻ったところで売ってしまいます。利益はおよそ5ドル。その直後、この株は202ドルまで上がりました。彼が「投資家人生でもっとも大きな教訓」と呼ぶのは、この取引です。

1942年、11歳の最初の取引

父ハワード・バフェットは証券会社を営んでいました。株の話は、家のなかにありふれていたはずです。

1942年、11歳のウォーレンは自分で銘柄を選び、買いに動きます。選んだのはシティーズ・サービスの優先株でした。

買値は1株38.25ドル。買ったのは3株で、合計114.75ドルです。金額は姉のドリスと分け合いました(CNBC)。

1942年という年も見ておきます。第二次世界大戦のさなかで、相場は落ち着かない時期でした。上がるか下がるかを予想できる状況ではありません。

父が証券会社を営んでいたことで、彼には株を買う手立てが身近にありました。これは小さくない条件です。多くの11歳は、興味を持っても買う方法にたどり着けません。

そして114.75ドルは、11歳が動かす金額としては小さくありません。しかも自分ひとりの金ではなく、姉を巻き込んでいます。ここが後の展開に効いてきます。

買った会社は、何をしていたのか

この話は「バフェットが早く売った」という部分だけが語られます。ただ、彼が何を買ったのかを見ておくと、話の見え方が変わります。

シティーズ・サービスは、1910年から1988年まで存在したアメリカの企業です。ヘンリー・L・ドハティという人物が、自分の持っていた3つの公益事業をまとめる持株会社として作りました。のちに石油事業も抱える、公益と石油の統合企業になります(Cities Service – Wikipedia)。

1942年当時の収益は、子会社の株式から入る配当が中心でした。そして第二次世界大戦のさなか、同社は連合国側の戦争遂行を支える主要な生産者のひとつになっています。

もうひとつ、当時の同社には事情がありました。1935年に成立した公益事業持株会社法により、保有する公益事業を手放すことを義務づけられていたのです。会社の形が変わっていく途中だったことになります。

押さえておきたい点

戦時下で、法律によって事業の再編を迫られていて、収益は子会社の配当に依存している。値動きが荒くなる条件がそろっていました。

11歳の彼が、そこまで理解して買ったとは考えにくいでしょう。だからこそ、下がったときに拠りどころがありませんでした。会社の中身を分かっていない株は、値段以外に見るものがないのです。

なお彼が買ったのは「優先株」でした。優先株は、普通株より先に配当を受け取れる代わりに、議決権が制限されることが多い種類の株式です。値上がりを狙う対象というより、配当を受け取る対象として扱われます。

その優先株が38.25ドルから202ドルまで動いたのですから、当時の相場がいかに特殊だったかが分かります。

27ドルまで落ちた

買った直後、相場が崩れます。

1942年6月、市場が底を打ちました。シティーズ・サービスの優先株は38.25ドルから27ドルまで下がります。3割近い下落です。

3株で見ると、114.75ドルで買ったものが81ドルになった計算です。およそ34ドルの含み損。買値の3割近くが消えた状態が、毎日続きます。

問題は、金額そのものよりも、隣にいた人でした。

姉のドリスは、株が下がっていることを毎日ウォーレンに伝えたと記録されています。責めたわけではなかったのかもしれません。ただ、11歳の弟にとって、毎日それを言われる状況は相当なものだったはずです。

自分ひとりの損なら、黙って耐えられます。人を巻き込んだ損は、そうはいきません。

40ドルで売った

やがて相場が戻りはじめます。

株価が40ドルに達したところで、ウォーレンは売りました。買値が38.25ドルですから、1株あたり1.75ドル。3株で、およそ5ドルの利益です。

ほっとしたはずです。姉に顔向けできる状態で終われました。

売る理由としては、じゅうぶんに見えます。損はしていない。少しだが利益も出た。毎日の小言も終わる。

ただ、この売却で確定したものを並べると、こうなります。およそ5ドルの利益。姉との気まずさの解消。そして、その銘柄との関係の終了です。

最初の2つは、売った瞬間に手に入ります。3つ目の意味が分かるのは、あとになってからでした。

その後、202ドルになった

売却からいくらも経たないうちに、シティーズ・サービスの優先株は202ドルまで上昇しました。

シティーズ・サービス優先株の値動き(1株あたり)38.25ドル買った27ドル1942年6月の底40ドル売った202ドル売却の直後

売った地点と、その後の高さ。縦軸は株価に対応させている。

数字にすると、こうなります。

実際にやったこと持ち続けていた場合
売った価格1株40ドル1株202ドル
3株の受取額120ドル606ドル
取得額との差およそ5ドルおよそ491ドル
同じ3株が、いつ手放すかで変わった額実際(40ドルで売却)およそ5ドル持ち続けた場合(202ドル時点)およそ491ドル差はおよそ98倍。ただし、この高値で売れたかどうかは誰にも分からない

棒の長さは金額に比例させている。左端の細い棒が、実際に手にした額。

ただし、公平のために書いておきます。202ドルで売れたという保証はどこにもありません。持ち続けていれば、その手前で怖くなって売っていた可能性も、さらに下がっていた可能性もあります。

この話の要点は「持っていれば491ドル儲かった」ではありません。売った理由が、株の中身とは関係がなかったという点です。

彼がここから学んだこと

バフェットは後年、この取引から得たものを繰り返し語っています。要点は3つです。

1. 買値にこだわらない

彼が売ったのは、買値の38.25ドルを超えたからでした。株の価値が40ドルだと判断したからではありません。

買値は自分の都合であって、その会社の価値とは何の関係もない数字です。それでも人は、買値を基準に売り買いを決めてしまいます。

2. 値動きを見すぎない

毎日値段を確認していれば、下がった日には売りたくなります。11歳のウォーレンには、それを毎日伝えてくる姉までいました。

のちに彼が「市場を見すぎるな」と言い続けるのは、この経験があるからです。

3. 他人の視線が判断を歪める

もし自分ひとりの金だったら、彼は40ドルで売らなかったかもしれません。姉を巻き込んだからこそ、早く決着をつけたくなりました。

これは意志の弱さの話ではなく、構造の話です。人を巻き込むと、判断に他人の目が入ります。

この3つが、後のやり方になった

のちのバフェットのやり方は、この3つの裏返しになっています。買値ではなく事業の価値を見る。値動きを追わない。そして、株を買うのではなく会社を買うという言い方をする。

この取引のあと、彼は稼ぐ側の経験も積んでいきます。父の仕事の関係でワシントンへ移ってからは新聞配達をしており、配達先には上院議員6人と最高裁判事1人が含まれていたと本人が語っています。1946年、16歳のときには25ドルでピンボール機を買い、理髪店に置いて稼ぎはじめました(CNBC)。

どれも、値動きを眺めて増える種類のお金ではありません。手を動かして、事業として稼いだ金です。のちに彼が「株ではなく会社を買う」と言うようになる素地は、この時期に作られたと見ていいでしょう。

11歳の取引で失ったのは5ドルではなく、491ドルでもありませんでした。失ったのは、正しい判断の理由を持っていなかったという事実です。それに気づいたことが、この取引の価値でした。

では、自分はどうするか

1. 売る条件を、買う前に決めておく

11歳のウォーレンには、売る基準がありませんでした。だから「買値を超えた」という、株とは無関係の理由で決めることになりました。

今日できること:いま持っている投資について、「どうなったら売るか」を1行で書いてください。株式や投資信託だけでなく、続けている事業や副業でも同じです。基準がないと、決めるのは値動きと気分になります。書くのは買う前が理想ですが、いま書いても遅くありません。

2. 確認する頻度を、意識的に落とす

毎日見れば、毎日判断したくなります。判断の回数が増えれば、そのぶん間違える回数も増えます。

今日できること:資産や数字を確認する頻度を決めて、カレンダーに入れてください。長期の積立なら月1回で足ります。アプリの通知を切るところまでやると、実際に見る回数が減ります。

3. 他人の金を預かるときは、判断の権限もはっきりさせる

ウォーレンの失敗の引き金は、姉と組んだことでした。一緒にやること自体は悪くありません。問題は、誰がいつ決めるのかを決めていなかったことです。

今日できること:家族や仲間と共同で何かをしているなら、「判断は誰がするか」「相手に報告するのはどのタイミングか」を口に出して確認してください。金額の大小ではなく、権限が曖昧なまま進むことがリスクです。

まとめ

1942年、11歳のウォーレン・バフェットは1株38.25ドルでシティーズ・サービスの優先株を3株買い、27ドルまでの下落に耐えたあと、40ドルで売りました。利益はおよそ5ドル。その直後、株価は202ドルになっています。

彼が売った理由は、会社の価値ではありませんでした。買値を超えたこと、下落を毎日知らされたこと、姉を巻き込んでいたこと。どれも株の中身とは関係のないものです。

もっとも、持ち続けていれば491ドルになったという話でもありません。後から見て正解が分かるのは、結果が出たあとだけです。この取引が教訓として残ったのは、儲けそこねたからではなく、判断の理由が間違っていたと本人が気づいたからでした。

よくある質問

バフェットが最初に買った株は何ですか

シティーズ・サービスの優先株です。1942年、11歳のときに1株38.25ドルで3株、合計114.75ドル分を購入しました。姉のドリスと金額を分け合っています。

その株はいくらまで下がったのですか

1942年6月に市場が底を打ち、38.25ドルから27ドルまで下落しました。3割近い下げです。この間、姉のドリスは株価が下がっていることを毎日ウォーレンに伝えたと記録されています。

いくらで売って、いくら儲けたのですか

40ドルで売却しました。買値が38.25ドルなので1株あたり1.75ドル、3株でおよそ5ドルの利益です。取得額114.75ドルに対する受取額は120ドルでした。

売ったあと、株価はどうなりましたか

まもなく202ドルまで上昇しました。3株を持ち続けていた場合の受取額は606ドルで、取得額との差はおよそ491ドルになります。ただし実際にその価格で売れたかどうかは、誰にも分かりません。

この経験から何を学んだのですか

本人が繰り返し語っているのは、買値にこだわらないこと、値動きを見すぎないこと、そして忍耐です。売った理由が「買値を超えたから」であって、会社の価値とは無関係だった点が教訓の中心にあります。

シティーズ・サービスはどんな会社だったのですか

1910年から1988年まで存在したアメリカの公益・石油の統合企業です。ヘンリー・L・ドハティが3つの公益事業をまとめる持株会社として設立しました。1942年当時は子会社からの配当が収益の中心で、第二次世界大戦では連合国側の戦争遂行を支える生産者のひとつでした。あわせて1935年の公益事業持株会社法により、保有する公益事業の売却を義務づけられていた時期にあたります。

数字の合計が合わないという説明を見たことがあります

「ウォーレンと姉が3株ずつ買った」と書かれている記事がありますが、その場合は6株で229.50ドルになり、広く記録されている114.75ドルと一致しません。114.75ドルを38.25ドルで割ると3株ちょうどです。本記事では、この計算が成り立つ「3株を2人で分け合った」という形で記載しています。

物語の続きは、耳と目で。

記事で読んだ人物の話は、音声「一流の耳学」とYouTube、noteでも配信しています。移動中や作業中に、耳から。

上部へスクロール